うつとがまん

今回はまずタイトルだけ決めて書く。


ガマンをすることは精神力が必要となる。見合うだけの精神力があれば、ガマンができる。
つまり
見合うだけの精神力がなければ、ガマンができなくなる。


ガマンができないことが「それでいいんだ」ということなら、「できない」といえるのだろう。
しかし
世の中、立場やタイミングとして「できない」といえないときがある。
すると
ムリをして「できる」ことにしてしまう。
そして、それがそのままになってしまう。


うつのタネだ。


そうしてためたうつのタネはあるとき一気に発芽してしまう。


ガマンをしなさい、オトナなんだから
年齢がそれなりだから?
でもそんなの関係ない。


ガマンをするには何が必要か。
精神力が第一と思われるかもしれないが、それだけではないと考える。
具体的には愛情である。
生命体は共栄共存が必要なのだということをどこかで知っているように最近思われる。


愛情と精神力、それだけがあればいいか。
それもまた足りない。根本的な体力も必要である。
カラダが動かないことには、自立するというプライドが保てないからだ。
自立するプライド?
自立することができないことは、他者依存ということにつながり、結果どこかでガマンが発生するからだ。


自立だけが強くてもいけない。愛情を与えるだけ、与えられるだけでもいけない。
よく精神力と一言で言うが、精神力って何か、というと
重いものを持ち上げられるというような力ではなく
眼を閉じたまま片足を上げて発っていられるような、そういうバランス感覚に近い力なのだと思う。
つまりは
精神力というものは、他者への愛情、受け取る愛情、自分自身への愛情の大きな3つの要素のバランス感覚が優れた力のことを差すと思う。


ニートになるヒトは、他者への愛情が足りておらず、それを認める家族からは、受け取る愛情が過多なのではないか。


話題がそれた。


ガマンはうつのタネである。
そして、ガマンは精神力と関係があるとした。
そして精神力は、他者への愛情、受け取る愛情、自分自身への愛情の3つのバランスの力だとした。


とするなら、ここまでの持論をまとめると
ガマンとは他者への愛情、受け取る愛情、自分自身への愛情の3つのバランスを必死に取ろうとすることだ
という理屈になる。


さらにうつは「気分の変調」である、ということを加えるなら
他者への愛情、受け取る愛情、自分自身への愛情の3つのバランスを必死に取ることは、ココロの動きを自分内部に向かわせ、結果外部への反応を失うことにつながる
つまり
うつの原因をたどるなら、
他者への愛情、受け取る愛情、自分自身への愛情の3つのバランスシートを作成して、それらがどのようなバランスとなっているかを分析する
そのことで
バランス力が回復し(補正され)、結果自分自身が取り戻せ、外部とのつながりを保つことができるようになる。


どうだろうか。


じゃ、そのバランスシートとやらはどういうものなのか。
他者への愛情というのは、愛するヒトがいれば分かりやすいが、それだけではなく、ボランティア活動だったり、チャリティだったり、手助けすることだったりする。それを思うだけではなく、行動することだ。
受け取る愛情というのは、その裏返しともいえるが、仮に自分自身ですべてがこなせる場合でも、受け取ることができる能力は必要だ。そして、人間はすべてが完璧ではない。残念ながら、すべてが正しく理解されるわけでもないし、時と立場が変われば、言うことが変わる。だから、これだけが過剰でも依存してもいけない。
自分自身への愛情とは、自分が好きになるという能力だ。自分が好きではない人間がヒトを好きになるのは難しい。それは資格を取ることかもしれないが、それだけではない。自分自身へどれだけ叱咤激励でき、自分自身の可能性を高められるか、世界を広げられるか、そういうことができなければ、自分自身への愛情は深まらないと考える。


ここまで、一気に書いてみた。


自分自身で読み返して、付け加えるなら
バランスシートとしてバランスが取れていても、そのバランスの位置が低いよりは高いほうが、人間として魅力的に写るのではないかと思う。

今年の目標

まずは何かに投稿してみる、ということだ。
出してみないことには先に進まない。
そして、もっと本を読むこと。


いまの自分はすでにSEという職業にうんざりしている。
それは職業選択をあまりに安易にしてしまったツケが今来ているのだと思う。
得意だから、やるというのでは、こういうことになるのだろう。
職業を変えることを含め、ここ数年の課題ではある。


経済的にはここ数年安定している。自分に向くスタイル、向かないスタイルの見極めができてきている。
そして、ヒトとのコネクションをもっと広げていくことが必要だということだ。
それをその後何につなげる、ということではなくそんな邪念抜きでやる。


果たしてカネがすべてか、というと違う。
生活がすべてであり、その生活とは一方でお金が必要だが、
一方で時間を使っているものである、ということだ。


生活が重要だ。そして、その生活はいまあまりうまく機能しているとは思えない。
しかもそれは今の会社にいて、自分が変わることでよくなるかというと、後に後悔することになりそうだ。
正しいかどうか分からないが、ヒトに人生をゆだねることに近い気がするからだ。

スポーツクラブ(5)

すでに足掛け6年通っているが、都度筋肉痛になる。
しかも、一日じゃなくて、二、三日は筋肉痛である。
よって、週2回以上通うとなると、筋肉痛を抱えたままレッスンに参加することになる。
さすがにカラダを動かすこともできないような筋肉痛にはならないが、ちょっとカラダが動かしにくいと思うことはある。


今のココロはカラダが支えており、時としてカラダが参ったときはココロがカバーするということを意識的に行っている。
そうでもしないと、自分のコントロールができない。


かつて、仕事ができなくなった後復帰できたのは、そういうコントロールが必要だ、と学んだことだと思っている。
胃をいためないと、胃痛が分からないように、精神的に病を患わないと、精神衛生なんて言葉がどんな意味をもつか分からない。
ましてや自分のように眼に見えないことは信じない唯物主義な人間は特に分からない。


年も改まったが、ここ一週間わがホームがお休みである。
12月28日〜1月4日まで休み
ちょっと休みすぎじゃないかなと思う。シフトを組めばどうにかなるんじゃなかろうか。
フリーのエアロのイントラは休むとしても、コンバットとパンプ、そしてアタックかステップがあればそれなりに形になるんじゃないかなと思うんだが、ダメだったのかな。
いずれにしてもイントラも人間であり、生活もあるだろうから、仕方がなかったのかもしれない。
リフレッシュして戻ってきてもらえばと思う。


こういう休みはヒトに考える時間を与える。
それがリフレッシュになればいいのだが、ときとして苦悩を与える。
今まで何気なくそこにいた人間が居なくなるタイミングでもある。
同じ場所にいて定点観測している人間としては、それは繰り返される歴史とはいえ、寂しいものである。

スポーツクラブ(1)

元々数学などという部屋に閉じこもって、一人で思索する学問をやっていた経験から、プログラマーなんてなろうものなら、カラダを動かさないと精神的なバランスが保てないと思って、就職してからすぐ水泳をしにスポーツクラブに通いだすことにした。


最初はただ距離を泳ぐだけだった。そのうち、泳ぎ方にこだわるようになり、何分泳いだかにこだわるようになった。
泳いでいると、時に水中でカラダを動かすレッスンがあり、いつしかそれに参加するようになった。


常駐先が変わり、泳ぐだけならと通う場所を変えた。
そのうち、近くにスポーツクラブが新しくできると知り、オープンと同時に会員となる。


そのとき初めてマシンを使うことを覚える。しばらくは柔軟して、マシンを使って、ちょっと汗をかいたところで、プールに行って泳いで終わり、というスタイルをしばらく続けた。
そのうち、スタジオで行われていることに興味を持つようになる。
当時のイメージはスタジオ=ダンシングヒーローのようなエアロビクスだったのだが、ステップ台を使ったりする、ウエイトを使ったりする種目があることを知る。


そのころ、仕事に行き詰まり、そして、切れてしまった。


どうせ切れたなら、といろんなことをしてやろうと思った。
さすがにエアロビクスはムリだと思ったが、ウエイトを使ったやつならなんとかできそうだ、と思った。


それが「ボディパンプ」だった。
それまではメインがプールだったが、ボディパンプをはじめてからは、パンプ中心となった。


会社は休み続けたが、パンプはきっちり出た。


スタジオになれたころ、いろいろなレッスンに出てみた。イントラと同じとは行かないが、それなりには動けるようになった。
しばらくはそれはそれなりに満足していた。


そのうち、なんとか会社に出ることができるようになった。カラダを動かすことにより、ココロに元気を届けることができた。


が、時はながれ、事情が変わることになる。
通っていたスポーツクラブで「ボディパンプ」を終了する、というアナウンスがあった。


つづく

今年を振り返り

紅白もまもなく終わろうとするこの時間帯にブログを書く。


今年は6月までと7月以降で全然違う側面を出した一年であった。
6月までは大楽勝だった。
人生において、こういう時期が続けばいいな、と思ったときだった。


7月以降がとてもハードだった。
自分が「これを乗り越えていこう!」と思えればよいのだが、どうしても


なんで?


という思いのみだ。
改めてこの業界に向かない自分と向き合うこととなった。
後輩に教えること、それは自分にとって向いていることが分かった。
ただ、SEとしてはどうだろうか。
そう思うと、自分の今の職業に疑問を覚える。


20代ならともかく、すでに30代になり、一波超えたのちに、疑問を覚えるのだから、自分と真剣に向き合わねばならないと思う一年だった。
いまのシステムが今の会社で携わる最後のシステムになるだろうな。

スポーツクラブ(4)

ここで目線を個人目線から、周囲に移す。


スポーツクラブにはいろいろな目的をもち、いろいろな時間帯に、いろんなひとがくる。
入会の仕方も他のヒトと一緒に入ることが多いみたいだ。


そのうち、自分はあわないと思うヒトが真っ先にやめていくのだと思う。
当然中には


これ面白い!


とはまるヒトがいる。そうなると、週に3、4日くるようになり
ヘタすると、毎日居ますという状態になる。


すると、常連さんの仲間入りである。


ところが、この常連さんというのは案外続かない。
それはそうだ。
リタイアしたヒトでもない限り、他に仕事を持っているのが普通であり、週に5日もくることになると、必然的に何かの時間をつぶすことになる。
それは、読書する時間だったり、映画を見る時間だったり……


そんな生活が続くわけがない。
1年ほどすると、あるとき「しばらくこないなー」なんて思っていたりすると、もうそれっきりこなかったりする。


かれこれ10年弱、スタジオに入りだしてからも5年通い続けているので、分かる。
楽しいからといって、週に4日も通ってしまうと、カラダも壊すが、ココロも危うくなる。


ココロとはモチベーションである。いったいなんのためにきているのか分からなくなるのではなかろうか。
「常連」というヘンなプライドを持ってしまうと、多少気持ちが落ちているときでも、プライドを保つために足を運び、そして、言いようのない不満感を持ち続けることになるのではないか。
結果、「常連」にはならないほうがいい、というのが私の結論だ。


あとは自分の感覚だと思う。自分は1回じゃ足りない、2,3回がベスト、4回では多いという感覚だ。だから、何とかして週二回は時間を確保して通う。
また、これまでは「スポーツクラブは現実逃避」ということで、メンバーとの会話も一切せずにすごしてきたが、それでは世界が広がらないだろうと思い、会話の輪に入ってみることにした。
そして、それが確実に自分にプラスに働いているように思う。


そういう中で思う。
去年からとか今年からはじめて、楽しいから参加している。
それはそれでいい。


だけど、普通の社会人なら、週に2,3回、レッスンも1日2つぐらいじゃないかなと思う。
やせたい、筋力つけたいっていうなら、他は日常生活で努力したほうがいい。


あとは具体的な目標を持つと辞めてしまう。
これは簡単で、目標を達してしまうと、目的を失ってしまい、それまでの熱が冷めてしまい、あっというまに去ってしまうのだ。


ワタシは「ストレス解消のため」に通っており、たまにイベントがあれば「やせないなぁ」とかいうもののそれが目的でもなんでもないので、ちっとも悔しくない。


スポーツクラブは入会金と幽霊会員が支えているのだと思う。すると、ある程度入会して期間が過ぎたら去ってもらう、というのが理想的なスタイルであろう。
が、スポパーク松森のように入会金不要のところは、ともかく長く居てもらったほうが収益的に安定するに違いない。


とすれば、他のスポーツクラブとは違ったスタイルでよいのではないかと思う。


具体的には「長く続けるコツ」を伝授したり、「目標より楽しさ」を教えたり、ということだ。
どうだろうか。


来年も春ごろ新しい「常連」が出てくるだろう。いま去りつつある「常連」はもう戻ってこないのかもしれない。

スポーツクラブ(3)

仙台市で新しくスポーツ施設を建て、その運営をコナミスポーツに委託する。


そんなスタイルでオープンしたのがスポパーク松森であった。
建物はあたらしいので、移動するか悩んだが、みなはそのまま居続けたので、そのままにしていた。


しかし、ここで状況はまた変わる。
コナミスポーツ泉、閉館。


ダイエーが撤退するのに前後して、コナミスポーツが撤退することとなった。
直営としては撤退だが、実際にはスポパークができたので、そちらへの実質的な移転だった。


結果、多くのメンバーがそのまま移動してきた。


幸い今はそのスポーツクラブで安住している。
特に不満もない。
定期的に他のスポーツクラブにもぐりこんでいるワタシから言わせてもらうなら、むしろ他よりよいと思っている。